01マスクがない店から、法医学教室へ
冒頭、栂野真琴はドラッグストアで、マスクの品切れに怒る女性客と店員の間に入ります。法医学教室では、キャシーがスマートフォンの投稿を見せ、話題は感染拡大への不安へ移りました。
事件の説明からすぐに始めるのではなく、店と職場という二つの場所が先にある。街の人々の不安と、医療に関わる人物たちの会話が、真琴の移動でつながる導入です。
マスクが手に入らない店先と、スマートフォンから届く情報。身の回りの小さな接点から時代の空気を描いている点に、作品の具体性があります。事件が起こる社会を背景の一言で済ませず、人物が過ごす場所として見せているわけですね。
02不安の中でも、死因を調べる仕事は続く
キャシーが教授会へ代理出席する一方、光崎は解剖を続けています。死因の分からない遺体を調べる教室へ、古手川が相談に訪れます。
光崎藤次郎は浦和医大法医学教室の教授、古手川和也は埼玉県警捜査一課の刑事。感染拡大への不安が話題になる職場で、死因を確かめる仕事も進んでいる。その二つが同じ場面にあるため、日常の会話から事件への切り替わりにも、教室の仕事が見えてきます。
03姪が疑問を抱いた、萱場啓一郎の死
舞台は2020年4月。オンライン通販会社の創業者・萱場啓一郎が、新型コロナウイルス感染症で急逝したとされます。姪は、その死に納得できず古手川を訪ねました。
姪によれば、啓一郎は大金を払って、未承認のワクチンを秘密に接種していたとのこと。だから感染症で亡くなるはずがない、と考えているのです。古手川は死因を調べてほしいという依頼を受け、浦和医大の法医学教室へ解剖を頼みます。
ここで置かれるのは、姪が信じている説明と、亡くなった事実の食い違い。秘密の接種という行動は知られていても、それが死とどう関わるのかは別の謎です。本人に尋ねられない出来事を、遺体の調査でたどろうとするところに、法医学ミステリーとしての引きがあります。
04専門職のミステリーとして始まったシリーズ
シリーズの出発点には、編集者からの「専門的な職業のミステリー」という要望がありました。中山さんは2015年のインタビューで、法医学を題材にする案を自分から提案したと説明しています。
同じ取材では、テーマを決め、物語、人物、トリックの順に考えるという創作の進め方にも触れています。初期の人物配置では、解剖を求める光崎と、それを拒む側の真琴の間をつなぐ存在として、キャシーを考えたそうです。
2016年の『誓い』に関するインタビューでは、解剖の描写を、以前読んだ上野正彦さんの『死体は語る』や映画の記憶から膨らませたとも話しています。法医学という職業から物語を組み立て、その場に異なる立場の人物を置く。シリーズ初期についての作者の説明から、教室の会話が持つ背景にも触れられます。
05各巻で、教室へ持ち込まれる疑問は変わる
刊行順は『誓い』『憂鬱』『試練』『悔恨』『悲嘆』、そして『困惑』。同じ法医学教室を舞台にしながら、調査が始まるきっかけは巻ごとに異なります。
第1作『ヒポクラテスの誓い』では、研修医の栂野真琴が教室へ入ります。一見すると事件性のない凍死や事故死などを、光崎が解剖していく導入です。
第2作『ヒポクラテスの憂鬱』は、コレクターと名乗る人物が県警の掲示板へ書き込み、事故死や病死として処理されそうな遺体の解剖を促します。『困惑』の姪による直接の依頼とは違い、匿名の働きかけが調査を動かします。
第3作『ヒポクラテスの試練』では、内科医の南条が元都議の急死について疑問を持ち込みます。第4作『ヒポクラテスの悔恨』になると、光崎に届くのは自然死に見せかけた殺人の予告。すでに起きた死への相談と、これから起こすという予告が対照的です。
第5作『ヒポクラテスの悲嘆』は、餓死した女性と家族の説明から始まります。引きこもり生活を背景に持つこの巻に対し、『困惑』では富豪の秘密の行動が焦点になる。死因という共通の問いの周囲に、異なる暮らしや人間関係が置かれています。

06シリーズの始まりと、Audible版
真琴が教室へ入るところから人物を知りたい場合は、初巻『誓い』が始まりの一冊になります。
『困惑』のAudible版は、石田嘉代さんの朗読で7時間34分。日本語の完全版オーディオブックで、音声版の配信日は2026年8月28日です。
声や読み方を確かめるプレビューと対象版の情報は、Audible公式の『ヒポクラテスの困惑』で確認できます。
07出典・確認先
作者インタビュー(e-hon、新刊ニュース2015年3月号)
確認日:2026年9月12日。

